2017年 08月 07日
daku
先ずは再録から.

daku-dikau-dia(人称代名詞Dシリーズ)

- Dosakah diriku sayang, daku masih menyayangimu
- Kali ini daku minta kau membuka pintu kesempatan
- Walau jatuh dan jatuh lagi daku tak akan perduli
- Tapi daku tak kan sembunyi

"Best of Dewi Yull" のCDの歌詞を拡大コピーしてチェックしていたら、こんな風に daku も出てきた。

一年生の教室でカラオケVCD を見せて、特に /u/ の音をしっかり聴き取らせ、発音練習をさせようと、ThinkPad を教室に持ち込んだ。ところが、これが全然ダメ。全く音が聞こえない。大きな教室で聴くためには、充分にボリュームを上げられるラジカセも同時に持ち込まなければやはり無理、と分かった。

次回はそうやるつもりだが、それよりもなによりも、カラオケの歌詞というものがこういうものであるということになると、人称代名詞の説明のところで、daku - dikau - dia というDシリーズの存在について、きちんと説明をしておかなくてはいけない。

それから勿論、これまた多い diriku - dirimu - dirinya なんぞについても説明できなければならない。文法の教師が教室にカラオケを持ち込むとなれば、それなりの覚悟がいるということがよく判った。[Sg 5.23.99]


このDシリーズは本来,古典マレー語で,-n で終わる語に続くとき,akan dia とか,dengan daku のように使われたのだが,Bambang Kaswanti Purwo は,Pramoedya が 短編 "Yang Sudah Hilang" の中でこんな風な使いわけをしているのを,Deiksis Dalam Bahasa Indonesia (1984) で報告している (34ペ). (注)

a0051297_19445104.jpgもし menyayangi, menangkap を「能動態」,diciumnya を「受動態」などと言い出すと,menyayangi, menangkap に続く daku は「目的語」,diciumnya に続く daku は「主語」,みたいなことになってしまうのだが,diciumnya - daku の関係は,menyayangi - daku, menangkap - daku の関係と違わないと,Pramoedya は考えているのではないだろうか.これを見ていると,そう思えてくる.

(注) 以下による Bumi Manusia の検索では,daku はヒットなし.この長編では使われなかったようである.

Bumi Manusia
https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=lxoTAAAAMAAJ&dq

[Sg]




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by sanggarnote | 2017-08-07 11:42 | diri


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